企業における交差性教育の実践:重なり合う多様性への理解を深める
はじめに:DEI推進における新たな視点「交差性」の重要性
企業のDEI(Diversity, Equity, Inclusion)推進は、現代において不可欠な取り組みとなっています。多様な人材を採用し、それぞれの能力を最大限に発揮できる環境を整備することは、組織の成長と競争力強化に直結します。しかし、画一的な多様性教育だけでは、従業員一人ひとりが抱える複雑な経験や課題に対応しきれない場面が増えています。
ここで重要となるのが、「交差性(Intersectionality)」という概念です。これは、人種、ジェンダー、性的指向、階級、障がい、宗教、年齢など、複数の社会的な属性が複合的に絡み合い、特定の個人が経験する差別や不利益、あるいは特権が、単一の属性に基づくものよりも複雑になるという考え方です。
この記事では、企業のDEI推進担当者向けに、この交差性の視点を多様性教育にどう取り入れ、より効果的で実践的なインクルージョンを組織内で実現していくかについて解説します。
交差性(Intersectionality)とは何か?
交差性という概念は、クリティカル・レイシャル・スタディーズ(批判的人種研究)の分野で、弁護士・研究者であるキンバリー・クレンショー氏によって提唱されました。当初は、特に黒人女性が、人種差別と性差別という二重の差別を経験する現状を説明するために用いられましたが、現在では人種やジェンダーに限らず、あらゆる社会的な属性の重なりに適用される概念として広く認識されています。
例えば、障がいを持つ女性、高齢のLGBTQ+当事者、特定の宗教的背景を持つ非ネイティブスピーカーなど、複数のマイノリティ属性を併せ持つ人々は、それぞれの属性に基づく課題に加え、属性が交差することによって生じる特有の困難や経験に直面する可能性があります。これらの複雑な経験は、単に「女性だから」「障がい者だから」といった単一のレンズを通しては捉えきれません。
なぜ企業において交差性の視点が重要なのか?
企業が交差性の視点を持つことは、以下の点でDEI推進の効果を飛躍的に高める可能性があります。
- 従業員の経験の正確な理解: 従業員一人ひとりがどのようなバックグラウンドを持ち、どのような課題に直面しているのかを、より多角的かつ深く理解できるようになります。これにより、表面的な対応ではなく、個々のニーズに寄り添ったサポートが可能になります。
- 画一的な教育の限界克服: 単一の属性に焦点を当てた研修だけでは、従業員間の多様性の中にあるさらなる多様性(例:LGBTQ+コミュニティ内での人種や階級による経験の違い)を見落としてしまいます。交差性の視点を取り入れることで、より包括的で、誰一人取り残さない教育コンテンツを設計できます。
- 真にインクルーシブな文化の醸成: 従業員が自身の持つ複数のアイデンティティを安心して表現でき、それが受け入れられる環境を作るためには、交差性の理解が不可欠です。特定のグループ内であっても、属性の重なりによって経験が異なることを認識し、配慮を怠らない姿勢が求められます。
- 制度・ポリシーの公平性の向上: 採用、評価、昇進、報酬、福利厚生、ハラスメント防止策などの社内制度やポリシーが、属性が交差する従業員にとって意図せず不利益をもたらす可能性がないかを確認するために、交差性の視点での検証が有効です。
多様性教育に交差性を組み込む実践的アプローチ
交差性の視点を多様性教育に組み込むためには、以下のようなアプローチが考えられます。
1. 研修コンテンツのアップデート
- ケーススタディの多様化: 単一の属性に焦点を当てた事例だけでなく、複数の属性が交差する従業員が直面した具体的な課題や成功体験に関するケーススタディを導入します。例えば、「高齢の女性マネージャーが経験した世代間バイアスと性別による課題」、「特定の宗教的背景を持つ障がいのある従業員が職場で直面した困難」などです。
- 体験談・ストーリーの共有: 従業員自身や外部の専門家から、自身の持つ複数のアイデンティティとそれが仕事の経験にどう影響しているかについてのストーリーを共有してもらう機会を設けます。これは、抽象的な概念を具体的な共感につなげるのに非常に有効です。
- 特権と抑圧の理解: 交差性は差別だけでなく、特権もまた交差する可能性があることを理解するワークを取り入れます。自分自身が持つ複数の属性の中で、どのような点で特権を持ち、どのような点で抑圧を経験しうるのかを考えることは、他者への共感を深める上で重要です。
- ワークショップ形式の導入: 一方的な知識伝達だけでなく、参加者がグループワークやディスカッションを通じて、異なるバックグラウンドを持つ人々の経験について考え、対話する機会を設けます。ロールプレイングなども有効です。
2. コミュニケーションと対話の促進
- 従業員リソースグループ(ERGs)の活用: 既存のERGs(例:女性活躍、LGBTQ+、障がい者支援など)が、それぞれのグループ内の多様性(人種、世代、役職など)についても議論し、他のERGsと連携して交差的な課題に取り組むよう促します。
- マネージャー・リーダー層への教育: マネージャーやリーダーが、部下の持つ多様な属性とその交差性を理解し、個別のニーズに基づいたサポートや、よりインクルーシブなチーム運営ができるよう、特化した研修を提供します。彼らがアンコンシャス・バイアスに気づき、交差性の視点を持って意思決定を行うことの重要性を伝えます。
- 安全な対話空間の提供: 従業員が自身の経験や懸念を安心して共有できる、心理的安全性の高い対話の場(タウンホールミーティング、ランチ&ラーンなど)を定期的に設けます。
3. ポリシー・制度の見直し
- DEI指標への反映: 従業員エンゲージメント調査やパルスサーベイの結果を分析する際に、単一の属性だけでなく、複数の属性の組み合わせ(例:〇〇部門の非管理職の障がいを持つ女性)でデータを切り分け、特定のグループが抱える課題を詳細に把握できるようにします。
- ハラスメント・差別防止ポリシーの強化: ポリシーにおいて、属性の交差に基づく複合的なハラスメントや差別の可能性についても明記し、相談窓口や対応プロセスが、複数のマイノリティ属性を持つ従業員にとっても利用しやすいものとなっているかを確認します。
- 福利厚生・サポート体制の包括性: 福利厚生やメンタルヘルスサポートなどが、従業員の多様なニーズ(例:シングルペアレントで介護も行っている従業員、特定の宗教上の理由で食事に制限がある従業員など)に対応できているか、交差性の視点で見直します。
効果測定の視点
交差性教育の効果を測定するには、従来の指標に加えて、より詳細な分析が必要です。
- 属性別エンゲージメント/満足度: 従業員サーベイの結果を、単一の属性だけでなく、複数の属性の組み合わせで分析し、エンゲージメントや職務満足度に有意な差が見られないかを確認します。特定の交差する属性を持つグループのスコアが低い場合、そこに対する追加的なサポートや教育が必要であることが示唆されます。
- 昇進・配置データの分析: 昇進や重要なプロジェクトへのアサインメントにおいて、特定の交差する属性を持つ従業員が過小評価されていないか、データを分析します。
- ERGsへの参加状況と活動内容: ERGsへの参加者の属性構成が多様か、またERGsの活動がメンバーの交差的なニーズに対応できているかを評価します。
- 教育プログラム参加者のフィードバック: 研修後のアンケート等で、「研修内容が自身の複雑なアイデンティティや経験に関連していると感じたか」「複数の属性を持つ人々の課題について理解が深まったか」といった、交差性の視点に関する質問項目を含めます。
まとめ:交差性の視点が拓く、より進んだDEI教育
企業におけるDEI推進は、単に多様な属性を持つ人々を「受け入れる」段階から、それぞれの属性がどのように重なり合い、個人の経験や課題を形成しているのかを「理解し、対応する」段階へと進化しています。交差性の視点を取り入れた多様性教育は、この進化を加速させるための強力なツールです。
このアプローチは、組織内の潜在的な不公平や見落とされていた課題を顕在化させ、より公平でインクルーシブな職場環境の構築に貢献します。一度の取り組みで全てが解決するわけではありません。交差性の理解は継続的な学びのプロセスであり、組織文化として定着させていく必要があります。
企業のDEI推進担当者の皆様には、ぜひこの交差性というレンズを通して、自社の従業員一人ひとりが持つ多様性の重なりに目を向け、多様性教育や社内制度の設計を見直すきっかけとしていただければ幸いです。これにより、真に誰もが活躍できる、持続可能な組織を実現できるでしょう。